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祈りの場をたずねなおす ― 墓じまいという選択

風に乗って、どこからか沈丁花の香りが漂ってくる春の終わり。
日差しの中にほんのりと夏の気配が混じりはじめる頃、ふと耳にしたのが「墓じまいを考えていまして……」というご相談でした。

「墓じまい」。
どこか寂しげな響きにも聞こえるその言葉の裏側には、ご先祖への想いと、今を生きる私たちの現実とのあいだで揺れる、深いまなざしがあります。

家という継承のかたち

かつての日本では、「家」とはただの建物ではありませんでした。
祖父母の記憶、先祖の歩み、仏壇の前で手を合わせる日常、それらすべてが家の中にありました。

そして、お墓もまた「家」の延長線にありました。
代々が集い、語らい、節目に花を手向ける場所。
そこには目に見えないけれど確かな“つながり”が、しっかりと根を張っていたように思います。

けれど、今はどうでしょうか。

遠方で暮らす子どもたち、少人数化する家庭。
仕事や生活の事情で、お墓参りもままならないという声を聞くことが多くなりました。

「守れないお墓をそのままにしておくことが、かえって申し訳ない気がするんです」
そう話してくださった方の表情には、深い愛情がにじんでいました。

形を閉じ、想いをつなぐ

「墓じまい」は、何かを終わらせる行為のようでいて、実は新たな供養のかたちを選び直す行為でもあります。

これまで守ってきた墓石を閉じ、今度は別の場所にご遺骨を移し、そこでもう一度、「よろしくお願いしますね」と仏さまに手を合わせる。
その姿は、まるで新たなご縁を結び直すようでもあります。

仏教では、「かたち」にとらわれず、その中に宿る「こころ」にこそ目を向けることを教えとしています。
たとえ墓石という物理的なかたちがなくなっても、ご先祖を偲ぶ心は、風のように、空のように、自由で、深く、どこまでも届いてゆくのです。

整理は、忘れることではない

あるご婦人が、墓じまいを終えられた後、こんなことをおっしゃっていました。

「正直、最初は心苦しくて。でも、改葬のときに骨壺を手に取ったら、不思議と“ありがとう”って言えたんです。ああ、これでよかったんだなって」

人は、ときに何かを整理することで、ようやくその大切さに気づきます。
古い手紙を読み返すように、押し入れの奥からアルバムを見つけるように。
整理することは、忘れることではありません。
むしろ、深く刻み直すことでもあるのです。

仏教には、「無量寿(むりょうじゅ)」という言葉があります。
限りのない寿(いのち)――つまり、時間や空間に縛られず、いつでも私たちを見守ってくださる仏さまのことです。

お墓があろうとなかろうと、手を合わせる私たちの心が、どこにいても仏さまに通じている。
それが仏教の本質でもあります。

手を合わせる先が墓石であっても、仏壇であっても、心の中であっても、そこには変わらぬまなざしがある。
そう思えば、「墓じまい」もまた、仏さまと私たちとの関係を深める機縁となるのではないでしょうか。

私たちは日々の中で、様々な「決断」を迫られます。
ときに、迷い、とどまり、そしてまた、歩き出す。

墓じまいという選択も、きっとそのひとつ。
急ぐ必要はありません。心が整うまで、じっくりと向き合えばいいのです。

昌楽寺では、そうした「まだ決まっていない思い」にも、静かに耳を傾けています。
答えが出ないことも、一緒に考えましょう。
仏さまは、言葉にならない思いにも、きっと応えてくださいます。

見送ることは、置いていくことではありません。
むしろ、想いを胸に、その人の分まで生きてゆくこと。

「墓じまい」を通して、ご先祖への祈りが新しい形となり、日々の暮らしの中に根づいていく。
それは、私たちが過去と未来をつなぐ、大切な橋を架けることなのかもしれません。

六月のやわらかな風の中、遠くでホトトギスの声が聞こえてきました。
季節は巡り、命は受け継がれ、祈りはかたちを変えて続いてゆきます。

どうか皆さまの心が、いつも仏さまのぬくもりに包まれていますように。
本日も手を合わせて、静かに祈念しております。

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