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「心の火」を灯す、真の情熱

経済的に豊かになり、不満もストレスも少ないはずなのに、「何だか生きている心地がしない」と感じることはありませんか。心の中に「情熱の火」が灯らず、漠然とした虚無感を抱えている時、私たちはどうすればその火を再び燃え上がらせることができるのでしょうか。

「与える」ことから始まる情熱

私たちの多くは、「何かを求める」ことで情熱が生まれると考えがちです。しかし、真の情熱は、時に「与える」ことから湧き上がってくるものです。動物たちは、生きるために必死に獲物を追い、身を守ります。彼らにとって、毎日は「怠けていられる」時間などありません。しかし、現代を生きる私たちは、時にあまりにも「与えられる」ことに慣れ過ぎてしまっているのかもしれません。
ある男性は、安定したIT企業を経営し、経済的にも恵まれているものの、人生に「情熱」を感じられないと悩んでいました。彼は以前、素敵な女性に出会った時に一時的に情熱が湧きましたが、連絡先を断られるとそれも失ってしまいました。彼は「残りの人生を消化試合のように生きている」と感じていたのです。
仏教では、私たち人間が、何かを自分の中に「取り込む」ことに大きな「快楽」を感じるようにできていると説きます。ご飯を食べたり、プレゼントをもらったり、優しい言葉をかけられたりすると、私たちは喜びを感じます。しかし、この「もらう」喜びばかりを追求すると、「もっともっと」と貪欲になり、最終的には孤独や虚しさに繋がってしまうことがあります。
真の情熱や生きがいは、自分自身の欲求を満たすことだけではなく、他者に「与える」という行為の中に深く根差しているのです。

日常の中に「熱」を見出す智慧

では、どのようにして「与える」ことを実践し、情熱を見出していけば良いのでしょうか。それは、特別な場所や出来事の中にだけあるわけではありません。むしろ、私たちの「日常」の中にこそ、そのヒントは隠されています。
私が若い頃、修行僧として厳しい生活を送っていました。朝早く起き、掃除をし、座禅を組み、肉体的な限界まで自分を追い込む日々でした。しかし、それは決して苦行だけではありませんでした。例えば、冬には冷たい水で雑巾を絞り、畳を拭く。夏には炎天下で草を抜く。一見、非効率で退屈なこれらの行為の中に、私たちは「五感を研ぎ澄まし、今この瞬間を全身全霊で感じ取る」という修行を見出すことができます。
あるお菓子屋さんの話があります。彼らは、子どもたちが気軽に買える10円のチョコレートを、品質を落とさずに作り続けるために、並々ならぬ努力を続けました。長年にわたるその「愚直なまでの追求」と「顧客への思い」が、やがてその商品を「誰もが知るロングセラー」へと導いたのです。
「情熱」とは、常に「面白い」ことや「楽しい」ことの中にあるとは限りません。むしろ、「不器用でも、真面目でも、一生懸命で、そこに熱がある」という姿勢の中にこそ、真の情熱は宿ります。日々の地味な繰り返しの中に、目的意識と「与える心」を持って取り組むことで、私たちは自分だけの「熱」を見出し、人生を「厚く」生きることができるのです。

「心の火」を次代へ繋ぐ

情熱を持って生きることは、私たち自身の心を豊かにするだけでなく、周囲の人々にも良い影響を与えます。情熱を持って仕事に取り組む人は、周囲に活力を与え、人々を惹きつけます。それは、あなたが熱い情熱を持って行動する時、同じように熱い情熱を持った人々が、あなたに声をかけ、新たな出会いや可能性が拓かれるからです。
あなたの人生に「情熱の火」が灯る時、それはきっと、先祖が築き上げてきた歴史の上に、新たな光を灯すことにも繋がるでしょう。先祖供養とは、単に過去を偲ぶだけでなく、先祖から受け継いだ命を輝かせ、未来へと繋ぐための大切な行為です。先祖への感謝の思いが強まるほど、私たちは「誰かの役に立ちたい」「社会に貢献したい」という「情熱」を抱き、行動へと駆り立てられるものです。
私たち一人ひとりが、自分の心に「情熱の火」を灯し、日々の生活の中で惜しみなく「与える」ことを実践するならば、その火は周囲へと広がり、やがて社会全体を温かく照らす大きな光となるでしょう。
もし今、心に「情熱の火」が灯らず、人生が「消化試合」のように感じているなら、まずはあなたの身の回りにある小さな「与える機会」を見つけてみてください。そして、自分の持てるものを惜しみなく差し出し、その喜びを味わってみましょう。その小さな一歩が、きっとあなたの心に真の情熱を呼び覚まし、あなたの人生を再び輝かせる秘訣となるはずです。

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