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愛で始まり、恩で終わる

春に咲いた桜がすっかり葉桜となり、季節は次第に深まってゆきます。草木が静かに息づき、雨に濡れた地面からは、どこかやさしい匂いが立ち上ってまいります。自然の中に身を置くと、私たち人間もまた、数えきれない命の連なりの中に生きているのだと改めて感じることができます。
そんな日々のなかで、ふと思うのです。人生とは、「愛で始まり、恩で終わる」ものではないかと。

はじまりは「愛」から

この世に生を受けるとき、私たちは誰もが誰かの愛に包まれてこの世に現れます。赤ん坊は自ら何かを望んだり、計画して生まれてきたわけではありません。親の、あるいはご先祖さまや仏さまの深いご縁によって、この命が与えられたのです。
誰しも、生まれたときには「ありがとう」も「ごめんなさい」も言えません。ただ泣いて、ただ眠って、それでも愛され、抱きしめられ、育まれていく。そのすべてのはじまりが、まぎれもなく「愛」なのです。
だからこそ、人生の出発点にある愛を忘れずにいたいと思います。家族の愛、友の愛、見知らぬ誰かが手渡してくれた小さな親切も、すべては命を支える愛のかたち。その積み重ねのなかで、私たちは今、ここに立っているのです。

巡りゆく「恩」

そして月日が流れ、人はさまざまな出会いと別れを経験します。学び、悩み、働き、傷つき、癒されながら、人は少しずつ歳を重ねていきます。その歩みのなかで気づくのが、「恩」というものの重さとあたたかさです。
恩とは、与えられるものでありながら、気づくまでに時間がかかるものでもあります。親の恩、師の恩、友の恩、あるいは人生のどこかで自分を助けてくれた誰かの恩。それは時に、自分が苦しいときにだけ見えてくるものでもあるのです。
仏教では「四恩(しおん)」という教えがあります。父母の恩、衆生の恩、国王の恩、三宝の恩――。すべての存在と社会のつながりの中で自分が生かされていることに感謝を忘れてはならないという教えです。
現代は何でも「自分の力で成し遂げた」と思いやすい時代かもしれません。しかし、自分ひとりでは成しえなかったことの方が、実は多いのではないでしょうか。誰かがそっと手を差し伸べてくれたから、見えないところで支えてくれたから、今日を無事に過ごせている。そのすべてが「恩」に他なりません。

恩返しのかたち

では、その恩にどう向き合えばよいのでしょうか。仏教では「報恩(ほうおん)」という言葉があります。文字通り、受けた恩に報いること。とはいえ、すべての恩に返礼をするのは難しいことです。もう会えない人もいれば、自分が気づかないまま助けてくれた人もいるかもしれません。
そんなときは、他の誰かへその思いをつなぐというかたちでも、十分な恩返しになります。いただいた愛を、誰かに分け与える。支えてくれたやさしさを、次の人に手渡す。それが仏教でいう「利他(りた)」の精神です。
お墓参りの折、ふと親の姿を思い出したり、亡き祖父母の笑顔が胸に浮かぶことがあるかと思います。それもまた、報恩の一つ。手を合わせるその行い自体が、感謝のしるしであり、つながりを確かめる行為なのです。

人生の終わりに近づくと、人は自然と「ありがとう」という言葉が増えてくるようです。若いころのように「こうなりたい」「ああしたい」と願うことよりも、今ある日常のありがたさや、身近な人への感謝の念が心の中を満たしていく。やがて訪れるそのとき、静かに目を閉じるとき、心に残るのは財産でも名誉でもなく、誰かに支えられた記憶、誰かに生かされた実感なのかもしれません。
そう思えば、人生はまさに「愛で始まり、恩で終わる」のです。

昌楽寺では、日々、さまざまな方とお会いします。供養のご相談、ご法事のお勤め、境内のお掃除にいらっしゃるご近所の方々――。それぞれの方に、それぞれの物語があり、人生があります。悲しみの中におられる方にも、どうかこの言葉を届けたいと思います。「あなたの人生は、愛から始まり、恩に包まれて終わるのですよ」と。
見えるものばかりに心を奪われるのではなく、見えない思いやご縁に感謝して生きていく。そういう姿勢こそが、仏道の歩みであり、心の平穏につながる道なのではないでしょうか。
この世に生を受けたそのときから、私たちは大きな流れの中に生かされています。その流れの源には、仏さまの慈悲の心があります。そしてその慈悲は、私たちの「ありがとう」の一言の中に、きっと息づいているのです。

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