雨音に耳をすませて

六月に入り、境内の紫陽花もだいぶ色づいてまいりました。梅雨の季節というと、どこか気持ちも湿っぽくなりがちですが、この時期にしか見られない風景や、耳をすませば聞こえてくる雨音には、仏さまのお慈悲が静かに宿っているように感じます。
日常生活の中では、どうしても晴れの日がありがたく、雨の日は煩わしく思ってしまうものです。洗濯物が乾かない、出かけるのが億劫になる……。けれど、私たちがあまり歓迎しないこの雨も、大地を潤し、木々や草花を育て、命をつないでいるのです。
雨もまた仏のはからい
これは、仏教の教えにも通じるものがあります。仏さまは、誰に対しても平等に、その慈悲の「雨」を降らせてくださいます。それは時に目に見えず、私たちが望まないかたちで与えられることもあるかもしれません。しかし、長い目で見れば、きっと必要なときに必要なものが授けられているのだと、そう信じることも仏道の歩みのひとつです。
あるご信徒の方から、こんなお話をうかがいました。「若いころは何をやってもうまくいかず、いつも不満ばかりだった。でも歳を重ねてふと振り返ってみたら、うまくいかなかったことが、結果としてよかったのだと気づいたんです」と。
見えない「恵み」を受けとる
うまくいかなかった時期、まさに「雨続きの日々」は、じつは心の土壌を耕していた時期だったのかもしれません。見えないところで、仏さまのはからいがあったのだと思えば、どんな過去にも合掌できるのではないでしょうか。
仏教には「一水四見(いっすいしけん)」という教えがあります。ひとつの水を見て、人間は水として見るが、魚は住処として、天は宝として、鬼は血として見る――。同じものでも、見る者の心のありようによって、それはまったく別のものに見えるという例えです。
つまり、私たちの「見方」が変われば、世界そのものが変わるということ。雨をただの煩わしさと見るか、恵みと見るか。それは、そのときの自分の心次第なのです。
雨音の向こうにある静けさ
もし今、思うようにならないことが続いている方がいらっしゃったら、どうか焦らず、ただその雨の音に耳を傾けてみてください。雨は必ず止みます。そして、止んだ後の空は、少しだけ澄んで見えるものです。
私たち昌楽寺では、日々の生活の中で感じる悩みや苦しみに、そっと寄り添うお寺でありたいと願っております。お参りの折には、どうぞご遠慮なくお話をお聞かせください。言葉にならない思いであっても、仏さまはきっとお聞きくださっています。
命の雨に支えられて
人知れず咲く紫陽花の花が、雨のしずくをまといながら、どこか誇らしげに見えるのは、それが与えられた「いのち」の時間を精一杯生きているからなのでしょう。私たちもまた、それぞれに与えられた人生の雨風の中で、静かに、しかし確かに、生きているのです。
この六月、雨の一滴一滴に感謝を込めながら、皆さまが心穏やかにお過ごしになられますよう、仏さまのお恵みが行き届きますようにと、日々祈念しております。