「自分の道」を探す方へ:永代供養から見出す人生の羅針盤
人生において、「自分は何のために生きているのだろう」「何をすべきなのだろう」と迷う瞬間は誰にでも訪れます。それはまるで、霧の中で道を見失ったような心細さ、あるいは、たくさんの道が目の前にあるのに、どれを選べばいいか分からないような焦りにも似ています。今回は、私自身の経験も踏まえ、自分らしい生き方、自分だけの道を見つけるためのヒントを、皆さんと分かち合いたいと思います。
迷いの中で見出す「嫌なこと」からの道
私自身も若い頃は、将来の目標が見えず、何がしたいのか分からずに苦悩した時期がありました。お寺の息子として生まれながらも、厳格な教えや伝統に反発し、「お坊さんにだけはなりたくない」と強く思っていたのです。しかし、その「なりたくない」という明確な思いが、かえって私自身の進むべき道を照らす羅針盤となりました。人生において、「やりたいこと」がすぐに見つからなくても、「やりたくないこと」や「こうはなりたくない」という状態は、比較的明確である場合が多いものです。その「嫌なこと」を避けるためにどうすべきかを考えることが、自分だけの道を見つける第一歩となることもあります。現代の供養のあり方についても、従来の「檀家制度」の維持や「お墓の承継」に困難を感じ、「墓じまい」を検討される方々は少なくありません。それは、単なる形式ではなく、未来の家族への負担を減らしたいという優しい気持ちから、「新しい供養」の形を探し求める「自分の道」と言えるでしょう。
今、目の前のことに「一所懸命」に取り組む智慧
「自分の道」が見つからない時、私たちはともすれば「何か特別なこと」を探し求めてしまいがちです。しかし、お釈迦様は「今、ここ」を全力で生きることの大切さを説かれました。将来の目的が明確でなくても、目の前にある「今、ここ」の課題に、全身全霊で取り組むこと。それが、やがて自分の可能性を広げ、新たな道へと繋がっていくのです。例えば、仕事や学業、あるいは日々の家事や育児であっても、漫然とこなすのではなく、「一所懸命」に取り組んでみてください。もし、あなたが何かを学びたい、あるいは誰かのようになりたいと願うなら、その世界で尊敬できる人を見つけ、その人の行動や考え方を「真似る」ことから始めてみましょう。それは決して「真似事」ではなく、自らを成長させるための「学ぶ」行為そのものなのです。昌楽寺の永代供養は、日々の読経を通じて故人様を供養し続けるという、地道で「一所懸命」な取り組みによって支えられています。
道は自ずから開かれる「本来の自己」への旅
人生には、思いがけない困難や挫折が訪れることもあります。しかし、そうした困難な状況に直面した時こそ、私たち自身の真価が問われるのです。仏教には、古い自分を「死なせる」ことで、新しい自分に生まれ変わるという考え方があります。それは、過去の失敗や、自分を縛り付けてきた習慣、あるいは固定観念といった「執着」を手放し、ありのままの自分を受け入れる「出家」にも通じます。目の前の課題から逃げず、自分自身の「本来の自己」と向き合い、一点にエネルギーを注ぎ切ることで、やがて視界が開け、新しい道が見えてくるでしょう。永代供養という選択も、従来の慣習にとらわれず、ご家族にとって最も良い供養の形を自ら見出し、実践していく「新しい道」となるはずです。昌楽寺は、皆様がご自身の道を歩み、心の平安を得られるよう、いつでも静かに、そして温かく寄り添い、支えてまいります。