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「なぜ?」探求、心の光

私は幼い頃から、様々な物事に対して「なぜ?」と問いかけてきました。時には答えが見つからず、深い迷路に迷い込むこともありましたが、この「なぜ?」という問いこそが、私たちを真の学びへと導く光だと感じています。

己を知る問いかけの旅

私たちは、幼い頃から学校で多くの知識を学び、社会の仕組みや世界の情勢について理解を深めていきます。しかし、その一方で、自分自身の内側については、ほとんど学ぶ機会がありません。その結果、大人になっても、「私とは何か」「人生とは何か」という根源的な問いを抱え、迷い続けることがあります。
「なぜ生きるのか」という問いに、明確な答えはないかもしれません。しかし、人間は、自分がやっていることに「意味づけ」を持つことで、より生きやすくなる生き物です。「何かのために頑張っているんだ」という大義名分や目的意識が、私たちに活力を与え、人生を豊かにするのです。
ある相談者の方が、経済的に成功しているにもかかわらず、心から満たされないという悩みを抱えていました。その方は目の前の仕事を一生懸命こなす中で、「なぜ生きるのか」という最も大事な問いを立ててこなかったのです。自分に問いかけ続ける旅は、時に苦しいかもしれませんが、その中で私たちは、自分が本当に望むものは何か、どのような生き方をしたいのかという「志願」を見出すことができるでしょう。

本当の「学び」とは何か

「勉強」と聞くと、私たちはつい、学校の教科書や資格試験、あるいは専門知識の習得を思い浮かべがちです。もちろん、これらも大切ですが、仏教において本当の「学び」とは、それだけではありません。お釈迦様は、「慈悲」(他者への思いやり)と「智慧」(知識と経験)の二つが、私たちをより良く生きるために不可欠だと説かれました。
どんなに慈悲の心があっても、それを具体的に行動に移すためには「智慧」が必要です。智慧とは、知識と経験を指します。かつて、ある相談者の方が「勉強ができない」と悩んでいましたが、私はその方に、「本当の勉強とは、算数が解けることでも、難しい漢文が読めることでも、流暢な英会話ができることでもない」と伝えました。本当の勉強とは、生きるために必要な「智慧」を身につけることであり、それは、自分の両親が、自分のために食べ物を持ってきてくれるのは、彼らが勉強して身につけた技術や知識を他者に提供しているからだと知ることです。
また、「天命」や「使命」といった、自分の人生の目的は、必ずしも得意なことや好きなことの中だけにあるわけではありません。むしろ、まったく興味がなかったことや、最も嫌だと感じていたことから、新たな世界が開けることもあります。ある相談者の方が、自分の使命が見つからないと悩んでいましたが、私は「目の前のことを一生懸命やっていれば、ある日突然、水面に映った月を見るように、自分の進むべき道が見えてくる」と伝えました。「なぜ」という問いを立て、目の前のことに無心で取り組む。その中で、私たちは自分自身の「明珠」(真価)を発見し、磨き上げていくことができるのです。

「天命」は目の前から現れる

自分に「なぜ?」と問いかけ続けることは、時に苦しみを伴うかもしれません。しかし、仏教の教えは、この苦しみの原因を理解し、それらを手放す方法を実践することで、心の平安を得られると説いています。人生には、明確な目標がなくても、「これだけはなりたくない」という状態があるものです。私の場合は、お金も仕事もなく、体も病気で、支えてくれる人もいない、ただ生きているだけの状態が嫌でした。だから、そうならないためにはどうすればいいのかを必死で考え、自分が最も苦手で弱いと思うことを克服しようと、空手道場に入門しました。
「なぜ」という問いは、私たちに「意識的に」日々を過ごすことを促します。無意識に一日を過ごすこともできますが、意識的に過ごすことで、私たちは自分の人生を自らデザインしていくことができるのです。自分のより良い未来を意識し、「今、ここで、自分は何をすべきか」と問い続ける。
その問いの答えは、必ずしも最初から明確ではないかもしれません。しかし、目の前の仕事や与えられた環境の中で、できることを全力でやること。それが、次に繋がる扉を開きます。一生懸命にやっている人には、必ず同じように一生懸命な人が声をかけ、心を動かされるのです。自分の人生における「なぜ?」という問いかけは、あなたの心の深奥に眠る可能性を引き出し、新たな道へと導く羅針盤となるでしょう。

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