「夢破れて」新たな自分と出会う

かつて情熱を傾けた夢を、やむなく諦めざるを得ない時、私たちは深い喪失感や無力感に襲われることがあります。しかし、その「終わり」は、本当に絶望なのでしょうか。今回は、諦めた夢の先に広がる、新たな道の見つけ方についてお話しします。
「諦め」は「成長」の機会
人生において、私たちは多くの夢を抱きます。それは、スポーツ選手になること、特定の職業に就くこと、あるいは何かを極めることかもしれません。しかし、現実は時に厳しく、努力を重ねても、その夢が叶わないこともあります。そんな時、「夢が破れた」と感じ、自分を責めてしまう人も少なくありません。
ある女性は、幼い頃からダンスに情熱を注ぎ、海外の有名カンパニーに就職する夢を叶えました。しかし、厳しい母親からの期待や、過酷な労働環境の中で、いつしか「好きで習っていたダンス」が「辞めたくなるもの」に変わってしまいました。夢を叶えたはずなのに、心は満たされず、苦しんでいたのです。
彼女のように、私たちは「夢を叶えなければ幸せになれない」という「執着」に囚われがちです。しかし、仏教では、不要な「執着」を手放すことで、私たちは真の「成長」を遂げられると説きます。自分の興味関心が変化したり、これまで夢中だったものが楽しくなくなったりすることは、決して悪いことではありません。それは、私たちが新たな段階へと進むための「変化の兆し」なのです。
「諦める」という言葉には、「明らかにする」という意味も含まれています。夢が叶わない現実を明らかにし、それを受け入れることは、新たな可能性の扉を開くための第一歩となるのです。
自分を縛る「箱」から飛び出す
夢を諦めることは、時にこれまでの自分を否定するようで、怖いと感じるかもしれません。しかし、それは決して「後退」ではなく、自分を縛っていた小さな「箱」から飛び出し、新たな自分と出会うための「出家」のようなものです。
私が若い頃、自分自身も様々な夢を追いかけました。サッカー選手になりたい、武道家になりたい、などです。しかし、どれも「実力不足」を思い知らされ、最終的には夢を諦めざるを得ませんでした。当時の私にとって、それは「失敗」であり、「挫折」でした。二度と寺には戻るまいと、自ら事業を立ち上げ、懸命に働きました。
しかし、多くの経験を積んだ今になって振り返ると、あの時諦めた夢や、そこで培った知識や技術、そして何よりも「全力で取り組んだ」という経験は、決して無駄ではありませんでした。それらは全て、現在の私を形作る大切な要素となり、当時の私には想像もできなかったような、新たな道を拓いてくれたのです。
大学で自分のやりたいことが見つからず悩んでいた男性に、私は「なりたくない状態」を避けるために、自分が一番苦手なことに挑戦してみることを勧めました。彼が空手道場に入門したことで、彼はそれまで知らなかった自分自身の「強さ」と「可能性」に気づくことができました。夢は、必ずしも「好きなこと」や「得意なこと」の中に見つかるわけではなく、「苦手なこと」を克服する過程で見えてくることもあるのです。
「与える」ことで生まれる新たな使命
諦めた夢の先に、何を見出すことができるのでしょうか。それは、自分自身の幸せを追求するだけでなく、他者に「与える」という新たな生きがい、そして使命です。お釈迦様もまた、王子の地位や王位を継ぐという「夢」を捨て、出家されました。しかし、その結果、彼は「仏陀」となり、2500年以上もの時を超えて、今なお私たちに生きる指針を与え続けています。
真の充足感や幸福は、地位や財産といった物質的なものだけでは得られません。自分の人生に「胸を張って」、今、自分は幸せだと心から言えること、そして、自分の存在が誰かの役に立っているという実感が、私たちに「新たな使命」をもたらすのです。
先祖供養もまた、そうした「与える」行為、そして「新たな使命」を見出すきっかけとなり得ます。亡き先祖の魂に感謝し、その子孫として今の生を全うすることは、私たち自身の心に静かな喜びをもたらします。先祖が築いてくれた命の連なりを、今度は私たちが次の世代へと繋ぐという意識が、人生に深い意味を与えてくれるでしょう。
もし今、夢を諦め、立ち止まっているのなら、それはあなたが新しい自分に出会うための、大きなチャンスです。過去の経験が全て無駄になることはありません。あなたの「諦め」は、きっと新たな「気づき」となり、誰かのために「与える」喜びを知る、新しい人生の道を拓いてくれるはずです。