変わることを恐れず、心を解き放つ

最近、夕方になると少しずつ季節の移り変わりを感じるようになりました。季節のように人生もまた、常に変化し続けるものだと感じ入ります。私たちは知らず知らずのうちに、古い習慣や考えに縛られ、未来への一歩をためらうことがあるのではないでしょうか。このブログでは、そんな心の「執着」を手放し、新たな安らぎを見つける智慧についてお話ししたいと思います。
変わらないことへの「執着」がもたらすもの
私たちは、慣れ親しんだものや、これまで続いてきた習慣に、ついしがみついてしまいがちです。それが、たとえ私たちに不便さや、時に心に重い負担を与えていたとしても、そこから離れることに漠然とした不安を感じるからです。例えば、遠方にあるご先祖様の古いお墓を、誰もが大変だと感じながらも、「ずっとそうしてきたから」という理由だけで守り続けているご家庭も少なくないでしょう。それはご先祖様への深い敬意から生まれる感情ですが、同時に、物理的な距離や費用の負担、後継ぎの問題など、目に見えない心配事として、知らず知らずのうちに心に積もっていくこともあります。
心とは不思議なもので、何かを「やめよう」と強く意識すればするほど、かえってそのことに囚われてしまうことがあります。例えば、不安な気持ちを打ち消そうとすればするほど、その不安が頭から離れなくなるように、一つのことに固執しすぎると、そこから先へ進むことができなくなってしまうのです。この「執着」という心の状態は、私たち自身の成長を妨げ、新たな可能性を見出す機会を奪ってしまいます。それは、まるで止まってしまった時計のように、時間だけが過ぎ去り、何も変わらない状況を生み出し続けることにもなりかねません。
心を解き放ち、新たな安らぎを迎える智慧
では、どのようにすれば、この「執着」から心を解き放ち、本当の安らぎを見つけることができるのでしょうか。大切なのは、問題そのものから目を背けるのではなく、それを深く理解し、その上で、それに囚われる心を「手放す」ことです。私たちが「執着」や「依存」を感じている時、それはまさに、人生において大きな変化が訪れ、私たち自身が成長する好機であると捉えることができます。古い殻を破り、新しい自分へと生まれ変わるための、大切な転換点なのです。
仏教の教えに「心身一如」という言葉があります。これは、私たちの心と身体は決して別々のものではなく、深く繋がっていることを示しています。心が緊張や不安、執着に囚われている時、身体もまたその影響を受け、様々な不調を感じることがあります。逆に、心の重荷を手放し、穏やかな気持ちを取り戻すことで、身体の緊張も和らぎ、軽やかな感覚を得ることができるのです。
そして、目の前にある「今」を「あるがまま」に受け入れ、感謝の気持ちを持つこともまた、執着を手放す大きな力となります。困難な状況であっても、それを「自分を成長させるための機会」と捉えることができれば、そこに感謝の念が生まれます。例えば、ご先祖様の墓じまいや、新しい「永代供養」を検討することは、一見、伝統を手放すことのように思えるかもしれません。しかし、それは決して過去を否定する行為ではなく、現代の状況に合わせた、ご先祖様への新たな、そして慈悲深い供養の形へと変化させる、深い感謝の表れとなり得るのです。
未来へ続く「安らぎ」を見つける一歩
執着を手放すことは、無責任になることではありません。むしろ、それはより良い未来のために、今、最も穏やかで持続可能な道を見つけることです。私たちを苦しめるのは、変化を拒み、うまくいかないものに固執し続ける心です。蛇が脱皮して新しい皮を得るように、私たちもまた、古い「観念」という殻を破り、柔軟な心で前に進む勇気を持つことが大切です。この頑なな心を解き放ち、素直に新しいことへ挑戦する姿勢が、私たちの人生を豊かにしていくでしょう。
特に、ご先祖様の供養のあり方で悩まれている方々にとって、「永代供養」という選択肢は、まさにこの「執着を手放す」智慧に通じるものです。家族の負担を軽減しながらも、お寺が責任を持ってご供養を続けていくことで、永きにわたり故人が大切にされる安心感が得られます。当寺の永代供養では、宗派や国籍を問わず、毎日、住職による読経供養を欠かすことなく行い、専門のスタッフが管理・清掃を承ります。これにより、ご家族は物理的な管理から解放され、心からの供養に集中できるようになるでしょう。
行動を起こすことは、どんなに小さな一歩であっても、未来を変える大きな力となります。例えば、新しい供養の形について調べてみたり、当寺のような場所を訪れて話を聞いてみたりすること。それは、ご自身やご家族にとっての「安心」という新たな目的地へ向かう、大切な第一歩となるはずです。その一歩を踏み出すことで、きっと、これまでとは異なる「運気」の流れを感じ始めることでしょう。