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お盆に寄せて ― 先祖とともにある時間

はじめに ― なぜ私たちはお盆に手を合わせるのか

夏の陽射しが強まるころ、日本各地では「お盆」の季節が訪れます。ご先祖様をお迎えし、ともに過ごすこの風習は、仏教と民俗信仰が融合した、日本人にとって特別な時間です。

家族が集まり、仏壇に灯をともす。迎え火で先祖の霊をお迎えし、送り火でお見送りする。その一連の流れには、目には見えないけれど確かな「つながり」への想いが込められています。

本記事では、お盆の由来と意味、そこに込められた仏教的な教えについてあらためて考えてみましょう。

盂蘭盆会のはじまり ― 目連尊者の物語

「お盆」という行事の起源は、仏教の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」にあります。盂蘭盆とは、古代インドの言葉「ウラバンナ(逆さ吊り)」を語源とし、苦しみにあえぐ霊の救済を意味します。

その由来としてよく語られるのが、釈迦の弟子・目連尊者の逸話です。目連尊者は、神通力によって亡き母の様子を見たところ、餓鬼道で苦しんでいることを知りました。彼は母を救うため、釈迦に相談します。すると釈迦は、「夏の修行期間を終えた僧侶たちに食事を布施し、その功徳を母に回向しなさい」と教えます。目連がその通りにすると、母は無事に苦しみから救われたというのです。

この教えが広まり、日本でも平安時代から「盂蘭盆会」として先祖供養の行事が営まれるようになりました。

迎え火と送り火 ― 「あの世」と「この世」をつなぐ灯り

お盆になると、家の門前や玄関で「迎え火」「送り火」を焚く風習があります。これは、ご先祖様の霊が迷わずに帰ってこられるようにとの願いを込めた灯火です。

また、精霊馬(しょうりょううま)と呼ばれるナスやキュウリで作った動物の形の飾りも、霊が乗って行き来する乗り物として用意されます。

火や乗り物といった具体的な形にすることで、目には見えない「死者の存在」を感じ、身近に引き寄せる。そのこと自体が、仏教における「縁起(すべてのものは関係性によって成り立つ)」の教えとも深く重なっています。

目連尊者の逸話にもあるように、お盆は単に霊を迎え入れる行事ではありません。それは、「供養」を通じて功徳を積み、それを他者に振り向ける「回向(えこう)」の精神を実践する場でもあります。

食べ物をお供えし、花を飾り、読経する。こうした行為は、亡き人への想いを形にするだけでなく、自らの中にある感謝や慈悲の心を育む機会でもあるのです。

また、「お布施」や「お施餓鬼」などの法要に参加することも、目に見えない多くの存在に対して「施す」ことを学ぶ大切な場となります。

都市化や核家族化が進む現代社会において、お盆の過ごし方も多様になっています。実家に帰省する人、オンラインで法要に参加する人、自宅で静かに手を合わせる人。

形式は変わっても、「亡き人を思い出す時間」「心を静かに調える時間」としてのお盆の本質は、今も昔も変わりません。

仏教では、「今ここに自分が生きている」ということは、無数の命のつながりの上に成り立っていると考えます。だからこそ、先祖や亡き人に感謝の気持ちを捧げることは、決して過去を振り返るだけの行為ではなく、「今を生きる力」へとつながるのです。

お盆は、「祈り」が暮らしの中に息づく時間です。豪華な法要や形式ばった儀式でなくとも、心を込めて手を合わせる。それだけで、私たちは先祖とつながることができます。

亡き人と心で語らう。自分の歩んできた道を見つめ直す。そして、これからを生きる自分に問いかける。

仏教の教えは、こうした何気ない日々の中にこそ、深く根を下ろしています。

このお盆という節目に、ふと足を止めて、心の中の静けさに耳を澄ませてみてはいかがでしょうか。

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