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花山法皇の光と祈りの軌跡 ― 天皇から出家へ、巡礼と宿縁の旅

平安のころ、17歳で即位し、わずか2年後に出家した異例の天皇がいました。その名は花山(かざん)天皇、後の花山法皇です。彼の人生は、華やかな王権から厳しい出家、そして巡礼へと刻まれています。その道の途中には、西国三十三所巡礼を復興し、今も巡礼者に深い信仰を寄せられる花山院菩提寺がありました。そして、昌楽寺とのご縁も、その信仰の温かさを語るものとして伝わっています。

生まれと即位、そして試練の青春

花山天皇は、永観2年(984年)、まだ10カ月足らずの幼さで皇太子に立てられました。その後、17歳の若さで第65代天皇として即位します 。しかし当時の政治は複雑で、有力者たちの権力争いの中に身を置くことになりました 。

彼には深い恋愛のドラマもありました。藤原為光の娘、藤原忯子(うつこ)への思いとその死は、花山天皇の心に深い影を落としました。出家についての動機は一説に忯子の死による深い悲しみとも、陰謀による政権交代とも言われています 。結局、19歳での突然の出家と退位は「寛和の変」と呼ばれ、王権に人生を委ねずに仏門へと進む思い切った決断でした。

花山法皇として見つけたもの

出家後の花山法皇は、仏道に身を置き、中山寺(兵庫・宝塚市)で徳道上人が開いた西国三十三所巡礼の宝印を受け、巡礼を復興しました。花山法皇の巡礼は格別なもので、観音信仰の精神に立ち返る大切な布教活動となったのです。
長年に渡る巡礼の中で詠まれた御詠歌は今も残され、多くの人々の心に響いています。巡礼によって人々に観音信仰を広め、現代の巡礼文化の礎を築きました 。

三十三ヵ所巡礼と菩提寺の創建

中山寺で宝印を授かった花山法皇は、最初は徳道上人が開いた巡礼を再興すべく、熊野や紀伊を巡りました。彼が巡礼を重ねる中、三十一番、三十三番に留まらない信仰の国内網が整えられ、巡礼地巡りがより確立されたのです。

また、晩年には兵庫・三田市の花山院菩提寺を居住の寄寓所とし、41歳でこちらで崩御されています。ここは番外札所として巡礼者も訪れる大切な霊場であり、彼の御廟が守られています 。

花山法皇の巡礼は西国三十三か所に限りませんでした。彼は書写山圓教寺を訪れ、当山の別院として建立された昌楽寺にも立ち寄ったと伝わります。その際、昌楽寺に小さな松を植えられたというエピソードは、今も境内に残された伝承として語られています

これは庄園政治や権力闘争を離れ、仏道の信仰に根差した菩提の心を示したもので、住職としての私も深い敬意を抱かずにはいられません。

花山法皇は出家後、およそ22年間に及ぶ布教と巡礼の旅路を歩みました 。彼は観音菩薩への信仰心を深め、巡礼を通じて人々の安らぎと祈りを呼び覚ましていきました。

その姿は、単なる儀式ではなく、行動による説法、現実の苦しみに寄り添う布教そのものでした。そして彼の御巡礼は、文字と和歌によってその信仰心を今に伝えています。

花山法皇は仏教文化と巡礼信仰を深く理解し、行動でそれを示しました。巡礼の体系を整え、信仰を行い詩歌に歌い留める姿は、修行と芸術が重なり合う仏教の一つの理想の形と言えるでしょう。

多くの巡礼者が、彼の精神に心を寄せて旅を続けているのは、信仰の輪を花山法皇がかつて繋いでくれたからにほかなりません。

書写山圓教寺の別院として建立された昌楽寺は、花山法皇が書写を訪れた際に立ち寄った記録があります 。そこに植えられた松は、「法皇が歩いた道、寄せられた信仰と感謝の証」として、今も境内に根を張っています。

当山ではその縁起を大切にしながら、訪れる方々に花山法皇の心を伝え、巡礼道への思いを深めていただいています。

花山法皇の人生は、華やぎから懺悔へ、そこから布教への道へと続きました。西国三十三所巡礼の復興は、彼が悲しみを仏を求める行動へと昇華させた証とも言えるでしょう。

また、昌楽寺との縁は、巡礼する者たちにとって、心安らぐ道しるべとなっています。私たちもこのご縁を大切にし、これからも花山法皇の信仰の心を受け継ぎながら、心穏やかな祈りの場所として歩んでまいります。

皆さまも、もし花山法皇の布教や巡礼の軌跡に想いを馳せながら、当山を訪れてくださることがあれば、それは天皇と出家僧が交えた静かな対話につながることでしょう。

どうぞお気軽にお参りくださいませ。

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