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境内の草取りをしていて気づいた「雑草」という名の植物はない ― 慈悲の心で見つめ直すいのちの平等

朝の涼しいうちにと思い、境内の草取りを始めました。雨の日が続いて一気に伸びた草たちが、石畳の隙間や植え込みの周りに勢いよく顔を出しています。

「また雑草だらけになってしまった」

最初はそんな気持ちで草取りを始めたのですが、作業を続けているうちに、ふとある言葉を思い出しました。

「雑草という名の植物はない」

これは植物学者の牧野富太郎博士の有名な言葉です。でも今朝、この言葉が単なる植物学的な知識を超えて、深い仏教的な意味を持って心に響いてきました。

しゃがみこんで一本一本の草を見つめているうちに、「これは単なる庭の手入れではなく、自分自身の心の手入れでもあるのかもしれない」と感じるようになりました。今日は、この草取り作業から学んだことについてお話ししたいと思います。

「雑草」と決めつけていた自分の心

石畳の隙間から顔を出している小さな草を抜こうとした時、その葉っぱをよく見てみると、とても美しい形をしていることに気づきました。細やかな切れ込みが入った葉、薄紫色の小さな花、根元近くの産毛のような細かい毛。

「これまで『邪魔な雑草』としか見ていなかったけれど、この草も一つの完成されたいのちなんだな」

そう思った瞬間、草取りの手が止まりました。

私たちはつい、自分にとって都合の良いものと悪いものを分けて考えてしまいます。境内を美しく保つために「あってほしい植物」と「ないほうがよい植物」に分類する。でも、その植物自身には何の罪もありません。ただ、与えられた場所で精一杯生きているだけなのです。

これは仏教の「分別(ふんべつ)」の教えと深く関わっています。私たちは日常的に物事を「良い・悪い」「美しい・醜い」「必要・不要」に分けて判断しています。でも、そうした分別こそが苦しみの根源になることがあります。

草にも仏性がある

天台宗では「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という教えがあります。草や木、国土に至るまで、すべてに仏性があり、成仏の可能性があるという考えです。

草取りをしながら、この教えの意味を改めて考えました。私の目の前にある一本一本の草も、それぞれが尊いいのちを持っている。人間の都合で「雑草」と呼ばれているだけで、その草自身は懸命に生きているのです。

小さな花をつけた草を見て、「この花を見る人は誰もいないかもしれないけれど、この草は精一杯美しく咲いている」と思いました。人に褒められるためでも、認められるためでもなく、ただ自分のいのちを全うしている。

これは私たち人間にとっても大切な教えではないでしょうか。他人の評価を気にしすぎることなく、与えられた場所で精一杯生きること。それこそが本来の姿なのかもしれません。

抜く草と残す草の境界線

作業を続けながら、「どの草を抜いて、どの草を残すか」という判断に迷うことがありました。

参道の真ん中に生えている草は、お参りの方の邪魔になるので抜かせていただく。でも、植え込みの奥の方で静かに生えている草は、そのままにしておいても良いのではないか。石垣の隙間で小さく花を咲かせている草は、むしろ味わいがあって美しい。

この判断の過程で、「完全に草のない庭が本当に美しいのだろうか」という疑問が浮かびました。

日本庭園の美しさは、完璧にコントロールされた人工美だけでなく、自然の持つ野性味や偶然性も取り入れているところにあります。茶道では「侘び寂び」という美意識があり、完璧ではない、少し不完全なところにこそ美しさを見出します。

境内の草取りも同じなのかもしれません。すべての草を取り除くのではなく、調和を保ちながら、自然の息づかいを感じられる空間にする。そこに中道の精神が表れるのです。

草取りをしていて気づいたのは、表面だけを刈り取っても、根っこが残っていればまたすぐに生えてくるということです。本当にその場所から草をなくしたいなら、根っこから抜かなければなりません。

これは煩悩についても同じことが言えます。怒りや欲望、嫉妬といった感情も、表面的に抑え込むだけでは根本的な解決になりません。その感情が生まれる原因、心の奥にある執着や思い込みから見直していく必要があります。

ただし、草の根を傷つけないよう、土が湿っている時を選んで優しく抜くように、自分の心とも向き合う時は、厳しすぎず、優しく丁寧に向き合うことが大切です。

草取りをしながら、「この作業に終わりはないんだな」ということも実感しました。今日きれいにしても、来月にはまた新しい草が生えてくる。それは決して無駄な作業ではなく、庭と共に生きるということなのです。

季節が変われば生えてくる草も変わります。春には春の草が、夏には夏の草が、それぞれの時期にふさわしい姿を見せてくれる。庭の管理も、自然のリズムに合わせて行うことで、より美しく豊かな空間になります。

これは私たちの心の成長についても言えることです。一度悟りを開いたからといって、それで完成ではありません。日々新しい気づきがあり、新しい課題が生まれる。その都度、心の庭を手入れしていく。それが修行の本質なのでしょう。

以前、植物がお好きな信者の方が、「住職さん、この草は抜かないでください。とても可愛らしい花が咲くんですよ」と教えてくださったことがありました。

その時は「雑草なのに?」と思いましたが、後日本当に美しい小さな花を咲かせているのを見て、その方の慧眼に感動しました。私が「雑草」と決めつけていた植物の美しさを、その方は見抜いておられたのです。

これ以来、草取りの時は「この草はどんな花を咲かせるのだろう」「この葉の形には何か意味があるのかな」と、一本一本をもう少し丁寧に観察するようになりました。

すると、今まで気づかなかった小さな美しさや、植物同士の関係性が見えてくるようになりました。ある草が他の草を支えていたり、石の陰で小さないのちを育んでいたり。庭は単なる「管理する対象」ではなく、「共に生きる仲間たち」の住処だったのです。

作業を終えて境内を見渡した時、「無駄な草など一本もないのかもしれない」という思いが浮かびました。

土壌を豊かにしてくれる草、小さな虫たちの住処になる草、季節を知らせてくれる草。それぞれが庭の生態系の中で、何かしらの役割を果たしているのでしょう。

人間関係でも同じことが言えるのではないでしょうか。時には「なぜこの人がここにいるのだろう」と思うことがあります。でも、その人なりの役割や意味があって、その場所にいるのかもしれません。

すぐにはその意味が分からなくても、時間が経ってから「あの時のあの人の言葉があったからこそ、今の自分がある」と気づくことがあります。

庭の草取りをしていると、「私が庭を手入れしているのか、庭が私の心を手入れしてくれているのか」という不思議な感覚になります。

草を一本一本丁寧に見つめることで、普段忙しくて見落としがちな小さな美しさに気づく。土に触れることで、大地の温かさや湿り気を感じる。鳥の声や風の音に耳を傾けることで、自然のリズムを思い出す。

これらすべてが、慌ただしい日常で凝り固まった心をほぐしてくれます。庭仕事は単なる作業ではなく、心の修行でもあったのです。

お寺の境内は、信者の皆さんがお参りに来られる共有空間です。だからこそ、美しく保ちたいという気持ちがあります。でも今日の草取りを通じて、「美しさとは何か」ということについても考えが深まりました。

完璧に整えられた人工的な美しさも素晴らしいですが、自然の息づかいを感じられる、少し野性味のある美しさもまた魅力的です。参道を歩いていて、石の隙間に咲く小さな花に心が和むこともあるでしょう。

大切なのは、お参りに来られる方が心安らかになれる空間を作ることです。そのためには、自然と人工のバランス、手入れの行き届いた部分と自然に任せる部分のバランスを取ることが必要なのかもしれません。

今朝の草取りは、いつもより時間がかかりました。一本一本の草をじっくり見つめ、その美しさやいのちの力を感じながら作業したからです。

でも、その時間は決して無駄ではありませんでした。「すべてのいのちには意味がある」「雑草という名の植物はない」ということを、頭だけでなく心でも理解することができました。

明日もまた新しい草が芽を出すでしょう。それを「雑草」として邪魔者扱いするのではなく、新しいいのちの誕生として受け入れながら、庭と対話するような気持ちで手入れを続けていこうと思います。

境内の草取りから学んだのは、庭づくりも心づくりも同じだということです。完璧を求めすぎず、自然のリズムに合わせて、慈悲の心で向き合う。そうすることで、より豊かで美しい庭が、より穏やかで慈愛に満ちた心が育まれていくのでしょう。

今日という日が、小さないのちたちへの感謝と慈悲の心に満たされますように。

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