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“あたりまえ”にありがとう ― 見落としがちな日常の仏教

私たちが日々生きているこの世界には、“あたりまえ”に見えることがあふれています。朝、目が覚めること。食卓に温かいごはんがあること。大切な人と交わす会話。けれど、こうした日常こそが、実はとても尊く、仏教が大切にする「気づき」や「感謝」の実践の場なのです。

本記事では、そんな“あたりまえ”のなかにある仏教の教えを、やさしい言葉で紐解いてまいります。

あたりまえは、あたりまえじゃない

仏教において、「無常」という教えは根本的な真理です。すべてのものは移り変わり、常に変化し続けます。昨日と同じ今日は決して訪れない。だからこそ、「いま」が大切なのです。

目が覚めたことも、今日という日を迎えられたことも、それ自体が奇跡的でありがたいこと。その気づきが、“あたりまえ”に感謝する心の種になります。

「ありがとう」と仏教の関係

仏教では「報恩感謝(ほうおんかんしゃ)」という言葉が大切にされています。私たちは多くの恩に生かされているという自覚を持ち、その恩に感謝し、報いることが修行でもあります。

食事の前の「いただきます」、仏前での合掌、日々の暮らしで自然と口にする「ありがとう」――これらはすべて、仏教的なこころの表れでもあるのです。

手を合わせるという行為

合掌は、仏教におけるもっとも基本的な所作のひとつです。仏に対して敬意を表し、他者への感謝をあらわし、自分自身の心を整える行為でもあります。

手を合わせることで、私たちは自分と他者とのつながりに気づき、また、自己の小ささや未熟さを受け入れ、素直な気持ちになることができます。

仏教では、外側の世界ではなく、自分の内側にこそ“答え”があると説きます。日常のなかにある何気ない風景や会話、ちいさな喜びや悲しみに気づくこと。それが“修行”であり、悟りへの一歩なのです。

たとえば、いつも通る道に咲いている一輪の花にふと目を留めたとき、「こんなにも美しいものがあったのか」と感動する。そうした瞬間が、仏教的な「気づき」なのです。

仏教は、山に籠る人のためだけのものではありません。むしろ、日々の生活こそが、修行の場であり、仏教の教えを実践する舞台です。

家事、仕事、人付き合い――どれもが、心を育て、仏の教えを実感する機会となります。何気ないことの中に「仏のまなざし」を感じられるようになると、世界の見え方がやさしく変わっていくことでしょう。

姫路市東今宿にある昌楽寺の「なごみの杜霊苑」では、永代供養や事前相談などを通じて、“ありがとう”の気持ちを形にするお手伝いをしております。

手を合わせることで、ご先祖や大切な人とのつながりを感じ、自分のいのちのありがたさに気づく。そんな日常の祈りが自然と生まれる場、それがなごみの杜霊苑です。

ふと足を止めて、空を見上げたくなるような瞬間。そんなときにこそ、ぜひお立ち寄りください。そこには、あなたの心に寄り添う“仏さま”が、静かに待っておられることでしょう。

仏教とは、決して特別なときにだけ関わるものではありません。むしろ、日々の「あたりまえ」に光を当て、感謝し、慈しむ心を育てる教えです。

“ありがとう”という言葉は、仏の慈悲そのもの。何もない一日が、どれほど満ち足りた日なのかを教えてくれる魔法の言葉でもあります。

今日、あなたが「ありがとう」と口にしたその瞬間、あなたのなかにも仏のこころが静かに灯っているのです。

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