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願いをたむけて ― 御祈祷のこころ ―

静かに手を合わせ、胸の内でそっと願いを唱えるとき。
私たちは、誰しもが仏さまに語りかけています。
目には見えず、声にも出さず、それでも確かに届いてゆく想いが、あるように感じられます。

それが、「祈る」ということ。
そしてその祈りに、仏さまのおちからをお借りして、形を添えるものが――御祈祷(ごきとう)です。

祈りは、いのちの営み

私たちが日々生きていくなかで、
「どうか健康でいられますように」
「家族に災いが降りかかりませんように」
「この試練を乗り越えられますように」――
そうした願いがふと心に湧くことがあります。

それは決して、わがままでも執着でもありません。
むしろ、人がいのちを大切に思うからこそ、願いが生まれるのです。

そしてその願いを、仏さまへとたむけるのが「御祈祷」であり、
祈りを仏の智慧と慈悲の光で包む、尊い行いでもあります。

御祈祷とはなにか

仏教における御祈祷は、
仏さまや諸天善神に向けて経文や真言を唱え、祈願主の願いが成就するよう導く儀式です。
また、心身を清め、福徳を授かり、災難を遠ざけるためにも行われます。

たとえば――

  • 無病息災・家内安全・厄除開運
  • 安産祈願・交通安全・商売繁盛
  • 合格祈願・心願成就・病気平癒
  • 地鎮祭や家のお祓い、新車祓いなど

人生のさまざまな節目において、御祈祷は、「仏さまとともに歩む」意思のあらわれなのです。

声に出さぬ願いも、仏さまは知っておられる

御祈祷の場では、お名前やご住所、お祈りの内容を読み上げることもあります。
けれど、それがすべてではありません。

ときに、言葉にならない願いがあります。
うまく説明できない思い、ただ「なんとかしたい」と願うだけの祈り。
そうした内なる声も、仏さまはきっと受け取ってくださいます。

仏教では、**「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」**と説かれます。
すべてのいのちの中に、仏さまの種がある。
だからこそ、どんな祈りも無意味ではなく、
どんな小さな声も、必ず仏の光に照らされるのです。

ある日、交通安全のご祈祷を終えたあと、小さなお子さまをお連れのご夫婦が、こうおっしゃいました。
「子どもが生まれてから、車の運転がとても怖くなりました。もしものことがあったらと思って……」

きっと、親であるという責任の重さと、愛情ゆえの不安があったのでしょう。
御祈祷のあと、そのご家族が笑顔で手を合わせる姿に、
仏さまはそっと寄り添ってくださっているように感じました。

祈りには、安心を生む力があります。
それは決して「魔除け」のようなものではなく、
「私はこのいのちを大切にしたい」という、内なる決意を整える儀式でもあるのです。

御祈祷は一度きりのもので終わるものではありません。
日常の中に溶け込み、少しずつ心を整えていく力があります。

願いが叶うこともあれば、叶わないこともあるでしょう。
けれど、それでも祈りを重ねることで、
「どうかこの出来事に意味がありますように」
「これが誰かの幸せに繋がりますように」と、
祈りのかたちが変わっていくこともあるのです。

そして、そうして変化していった祈りは、
まるで仏さまの光に少しずつ照らされ、育てられたような、穏やかなものになるのかもしれません。

昌楽寺では、各種御祈祷を随時受け付けております。
静かな本堂で、心を落ち着けて手を合わせるひとときは、日常のざわめきから少し離れて、
ご自身と向き合う時間にもなります。

  • 家内安全・厄除け・病気平癒
  • 安産祈願・新車祓い・開運招福
  • 合格祈願・商売繁盛・心願成就 など

どうぞお気軽にお問い合わせください。
願いのかたちや言葉がまとまっていなくても大丈夫です。
祈る気持ちさえあれば、それはもう仏さまへ向かう道のはじまりです。

願いを持つということは、いのちを生きようとする証です。
だからこそ、祈るという行為は尊く、かけがえのないものです。

御祈祷は、ただ願いを唱えるだけではありません。
仏さまの光の中で、自分自身と向き合いながら、これからの歩みを整える時間でもあります。

どうか皆さまの願いが、穏やかなかたちで実を結びますように。
そして、その歩みのなかに、いつも仏さまのまなざしが注がれていますように。