差し入れをいただいて気づいた「受け取る勇気」 ― 素直に甘えることの大切さ

先日、法要の準備で慌ただしくしていた時のことです。信者の方がお参りにいらして、「住職さん、お疲れでしょう。これでも飲んで元気出してください」と栄養ドリンクを差し入れしてくださいました。
「ありがとうございます。でも、そんなお気遣いなく」
咄嗟にそうお答えしてしまいました。その方は「そうですか」と言って帰られましたが、実際のところ、疲れがたまっており、本当にありがたいお心遣いだったのです。
なぜか素直に「ありがたくいただきます」と言うことができませんでした。住職として、いつも皆さんを支える側にいなければという思いが先に立ってしまったのかもしれません。
その夜、一人でこの出来事について考えているうちに、「与えること」と同じくらい「受け取ること」も大切なのではないかと気づきました。今日は、この体験から学んだことについてお話ししたいと思います。
なぜ「お気遣いなく」と言ってしまったのか
あの時、なぜ私は信者の方の親切を遠慮してしまったのでしょうか。後から振り返ると、いくつかの理由が思い当たります。
「住職として、常に皆さんを導く立場でいなければ」 「信者の皆さんにご負担をおかけしてはいけない」 「自分のことで心配をかけたくない」
こうした気持ちが瞬間的に働いて、せっかくの善意を受け取れなかったのです。でも、これって本当に正しい判断だったのでしょうか。
その方は、私の様子を見て「お疲れのようだな」「何かお役に立てることはないかな」と思ってくださったはずです。その温かいお心を遠慮してしまうことで、かえって相手の善意を無駄にしてしまったのではないでしょうか。
「受け取ること」も立派な善行
仏教には「布施(ふせ)」という教えがあります。多くの人は、これを「与えること」「施すこと」だと理解しています。確かにその通りです。でも、実は「受け取ること」も布施の一部なのです。
なぜなら、誰かの親切を受け取ることで、その人の善行を完成させることができるからです。お弁当を作ってきてくださった信者の方の善意は、私が受け取って初めて「布施」として完成するのです。
これを「受施(じゅせ)」と呼ぶことがあります。施しを受けることもまた、相手の修行を助ける尊い行為なのです。
考えてみてください。もし世界中の人が「お気遣いなく」「結構です」と言って、誰も人の親切を受け取らなかったら、誰も善行を積むことができなくなってしまいます。受け取る側がいるからこそ、与える側の善意が活かされるのです。
お寺での「甘える」ことの美しさ
住職として、いつも皆さんを支える立場にいると思いがちですが、実際には信者の皆さんに支えられて成り立っているのがお寺です。
お布施をお納めいただき、法要にお参りいただき、お寺の掃除をお手伝いいただく。そして時には、こうして心のこもった差し入れまでいただく。私一人では何もできないのが現実です。
それなのに、変に遠慮して「お気遣いなく」と言ってしまうのは、むしろ信者の皆さんとの距離を作ってしまうことになるのかもしれません。
子どもを見ていると、とても素直に「ありがとう」と言って大人の優しさを受け取ります。その姿は微笑ましく、周りの大人も自然と温かい気持ちになります。住職も、時には素直に信者の皆さんの善意に甘えることで、より身近で親しみやすい存在になれるのではないでしょうか。
仏教では「赤子の心」という表現があります。純粋で素直な心のことです。人の親切を素直に受け取る心も、この「赤子の心」の表れなのかもしれません。
体調を崩した時に学んだこと
以前、風邪で寝込んでしまった時がありました。その時も、多くの信者の方が心配してくださり、お粥を作って持参してくださったり、お寺の日常業務を代わりに手伝ってくださったりしました。
最初は「住職として情けない」「ご迷惑をおかけしてしまった」という気持ちが強かったのですが、だんだんとその優しさが心に染みるようになりました。そして、「ああ、私はこんなにもたくさんの方に愛されているんだな」という実感が湧いてきました。
体調不良という一見ネガティブな出来事が、信者の皆さんの温かさを改めて気づかせてくれたのです。もし私が「大丈夫です」「一人でできます」と言い続けていたら、この温かさを感じることはできませんでした。
これは仏教で言う「逆縁(ぎゃくえん)」かもしれません。一見マイナスに見える出来事が、実は大切な気づきや学びをもたらしてくれる。病気になったことで、人の優しさと「受け取ること」の大切さを学ぶことができました。
先輩住職から学ぶ
近所のお寺の先輩住職のお話を聞かせていただく機会がありました。その方は、信者の方からいただく野菜や手作りの品を、いつも本当に嬉しそうに受け取られます。
「信者さんが心を込めて作ってくださったものを断るなんて、もったいない話です。素直に『ありがたくいただきます』と言って、美味しくいただく。それが一番の供養になりますよ」
その言葉を聞いて、なるほどと思いました。信者の方の善意を受け取ることは、決して住職の威厳を損なうことではなく、むしろ相手の心に応える大切な行為なのです。
法話の中での「受け取る勇気」
この気づきは、法話の内容にも影響を与えています。
以前は「与えることの大切さ」を中心にお話しすることが多かったのですが、最近は「受け取ることの意味」についてもお話しするようになりました。
「困った時は遠慮せずに助けを求めましょう」 「人の親切は素直に受け取りましょう」 「『ありがとう』の一言が、相手の善意を完成させます」
こうしたお話をすると、信者の皆さんも「そうそう」と頷いてくださいます。きっと皆さんも、同じような経験をお持ちなのでしょう。
与えることと受け取ることのバランス
もちろん、いつも信者の皆さんに頼ってばかりいては問題です。大切なのは「与えること」と「受け取ること」のバランスです。
通常は法話や法要を通じて皆さんの心の支えになるよう努める。困った時には素直に助けていただく。そうした自然な関係性が、お寺と信者の皆さんとの健全な関係を築いていきます。
川の水も、流れ続けているからこそ清らかさを保てます。一方通行ではなく、お互いに与えたり受け取ったりする関係性こそが、お寺を中心とした地域コミュニティを豊かにしてくれるのです。
仏教の「中道(ちゅうどう)」の教えも、このバランスの大切さを説いています。極端に偏ることなく、状況に応じて適切な判断をする。これは檀家の皆さんとの関わり方においても重要な智慧です。
「受け取り上手」な住職になる
「与え上手」という言葉はよく聞きますが、「受け取り上手」という表現もあってもいいのではないでしょうか。
受け取り上手な住職は、信者の方の善意を素直に受け取り、心からの感謝を表現します。そして、その優しさを法話や日常の関わりの中で、また別の形で皆さんにお返ししていこうと思う心を持っています。
私も、あの差し入れの体験以来、「受け取り上手」になることを心がけています。信者の皆さんの親切を素直に受け取り、心からの「ありがとうございます」をお伝えする。そして、次にお会いした時には、その感謝の気持ちを込めてより心のこもった法話をする。
お寺という場所と「受け取る勇気」
お寺は、元来「支え合いの場」でした。困った時にはお互いを助け合い、喜びの時には共に喜ぶ。そうした地域コミュニティの中心としての役割を果たしてきました。
現代では、その機能が薄れがちですが、だからこそ意識的に「支え合い」を大切にしたいと思います。住職も完璧な存在ではありません。時には弱さを見せ、助けを求め、信者の皆さんの優しさに甘える。
そうした人間らしい関わりの中で、お寺がより身近で温かい場所になっていくのではないでしょうか。
仏教の「空(くう)」の教えと受け取ること
仏教の「空」の教えは、すべてのものが固定的な実体を持たず、相互依存的な関係の中で存在していることを説いています。
住職も、信者の皆さんとの関わり、支え合いの中でこそ、本当の役割を果たすことができるのです。
人の助けを受け取ることは、この相互依存的な関係を認めることでもあります。「私は一人で寺を護っているのではない」「信者の皆さんに支えられて成り立っている」という謙虚さと感謝の気持ちが、「受け取る勇気」の根本にあるのです。
おわりに ― 今度は素直に「ありがたくいただきます」と
あれから何度か信者の方から差し入れをいただく機会がありました。今度は素直に「ありがたくいただきます」と言って受け取らせていただいています。
すると不思議なことに、以前よりも温かい気持ちになれるのです。差し入れしてくださった方の優しさがしっかりと心に届き、「この感謝の気持ちを、今度の法話でお伝えしよう」という気持ちが自然と湧いてきます。
受け取ることは、決して住職の威厳を損なうことではありません。信者の方の善意を完成させる、大切な役割なのです。そして、受け取った優しさは、法話や日常の関わりを通じて、また皆さんにお返しすることができます。
今日も、きっとどこかで小さな親切の交換が行われていることでしょう。その時は、変な遠慮をせずに、素直に「ありがとう」と言ってみてください。そこから始まる温かい循環が、お寺を中心とした地域の絆を少しずつ深めてくれるはずです。
人の親切を受け取る勇気、助けを求める素直さ、そして受け取った優しさを次に繋げていく心。これらもまた、仏教が教えてくれる大切な人生の智慧なのです。
今日という一日が、与えることと受け取ることの美しい循環に満たされますように。