仏像の“手”の意味 ― 印相(いんぞう)ってなに?

仏像をご覧になったことのある方は、その「手の形」が仏像によって異なることに気づかれたかもしれません。手を胸の前で合わせていたり、片手を上げていたり、膝の上でゆったりと組んでいたり……。
このような手の形には、それぞれに深い意味が込められており、仏教ではこれを「印相(いんぞう)」と呼びます。印相は、仏や菩薩の内面の働きや、私たちへのメッセージを象徴的に表しているもので、仏像を観るときにその意図や役割を知る手がかりともなります。
今回は、この「仏像の手の意味」である印相について、代表的なものを取り上げながら、その背景にある仏教の教えや心の在り方を、やさしく紐解いてまいりましょう。
印相とはなにか
印相(いんぞう)とは、サンスクリット語で「ムドラー(mudrā)」と呼ばれるもので、もともとは古代インドにおいて呪術的な意味をもつ手の型でした。仏教が成立し広まる中で、仏や菩薩が何らかの行いや教えを象徴するために、この手の型が用いられるようになったのです。
印相には、その仏の持つ徳や特性、教えの方向性が込められており、仏像はその姿と手の形によって「何を伝えようとしているのか」を表現しています。
では、実際にどのような印相があるのでしょうか。
合掌印(がっしょういん)
合掌印は、両手のひらを胸の前で合わせた形をとります。 これは日本人にとってもなじみのある所作であり、礼拝や祈り、感謝の表現として知られています。
仏像における合掌印は、信仰心の象徴であり、「仏と私」「他者と自分」との調和や一体化を示すとされます。観音菩薩や地蔵菩薩など、慈悲の仏の姿によく見られる印相です。
また、合掌には「一切の対立を超えて、心を一つにする」という深い意味も込められています。
施無畏印(せむいいん)
右手を胸の前に上げて掌を前に向け、指を上に伸ばす形の印相です。 この姿は「恐れることはない」「私が守ります」といった意味を表しています。
仏が私たちを安心させ、すべての恐れを取り除いてくれるという慈悲の表れで、釈迦如来や弥勒菩薩などの仏像によく見られます。
施無畏印には、「仏は私たちに恐れなく生きてよいのだと教えてくれている」という優しい励ましが込められているのです。
与願印(よがんいん)
左手を膝のあたりで掌を前に向けて差し出すような形。 これは「願いを受け入れ、与えること」を意味しています。
施無畏印と対になるように見られることが多く、「不安を取り除き(施無畏)、そのうえで願いを叶える(与願)」という仏の働きを表しています。
人々の願いや祈りに応えようとする仏の慈悲の心が、この手の形から伝わってきます。
説法印(せっぽういん)
親指と人差し指で円をつくり、他の三指を立てる形。 主に釈迦如来が法を説くときに用いられる印相です。
これは「仏法を説いて人々を救う」という意味があり、仏教の伝道や教えの広まりを象徴しています。
説法印は、釈尊が初めて法を説いた「初転法輪(しょてんぽうりん)」の場面に由来し、智慧と慈悲をもって導こうとする仏の姿勢が示されています。
禅定印(ぜんじょういん)
両手を組んで膝の上に置き、掌を上に向け、親指同士を軽くつける形。
これは瞑想や内省、精神統一を表す印相で、阿弥陀如来や大日如来など、深い瞑想に入る仏像に見られます。
「心を静め、内なる真実に向き合う」ことの大切さを示し、落ち着きや平安、悟りの境地への導きを象徴しています。
転法輪印(てんぽうりんいん)
両手を胸の前で交差させ、親指と人差し指で輪をつくる複雑な形。 釈迦如来が法を転じる(説く)さまを表した印相で、教えが世に広がっていく様子を意味します。
これは「仏の教えという車輪が回り続けることで、迷いを断ち、世界が調和に向かう」ことを象徴する大切な印相です。
印相に込められた祈り
これらの印相は、単なる装飾ではなく、仏の心の働きや、私たちへの導きの表現です。仏像を前にしたとき、その手の形が何を伝えようとしているのかに目を向けてみることで、仏の教えがぐっと身近に感じられるかもしれません。
たとえば、施無畏印を見て「守られている」と感じたり、禅定印を見て「今ここに心を置こう」と思ったり……。印相は、静かに私たちの心に語りかけてくるのです。
最後に ― 仏像の手に込められたやさしさ
仏像の手は、言葉では伝えきれない祈りや思いを、そっと形にしたものかもしれません。
合掌に込められた敬い、施無畏に込められた慈しみ、禅定に込められた静けさ――。
その一つひとつに、仏のやさしさが宿っています。
昌楽寺では、仏像をただ拝むだけでなく、その姿や手の形、そしてその背後にある教えにも、そっと心を寄せていただければと思っております。
何気なく手を合わせたくなるそのとき、きっと仏さまも、あなたの心に寄り添ってくださっていることでしょう。